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我々は言語に束縛されている。

苫米地式コーチング認定コーチ 山本敦志のブログ

 

私たちは言語空間に住んでいる。

 

このブログでも情報空間と物理空間とに大別して色々と説明してきているが、言語とはどのような位置づけだと考えればよいだのだろうか。

 

もちろん言語は物理ではない。人の脳内での情報処理の中で使われたり、人と人とのコミュニケーションにおいて使われたりするので情報空間に属すことは当然のことだ。

 

言語の宇宙を言語空間と名付けたときに、情報空間の中の言語の世界が生まれる。

 

その言語空間の中に我々は生きている。

 

どういうことかというと、例えば法律とは言語で規定されている。赤信号で止まるのは法律で止まるように定められているからだ。そして裁判も言語のやり取りで判決がくだる。人と人との間の喧嘩も言語を使う。知識の伝授、すなわち教育も言語を使って伝達する。

 

当たり前と言えばそれまでだが、我々は言語空間に生きているのだ。

 

そして驚くべきことに、その言語の制約は西洋社会から生まれている。

 

我々は何気なく言語を使うが、無意識の領域まで深く、深く言語により束縛されている。しかしそれに気づいていない。

 

もちろん、しつけや教育は言語を通して行われてきているので当然である。

 

西洋から生まれた契約の概念により、この世のあらゆるものが生み出されており、言語を通して我々東洋の日本人にまで深くある思想が浸透している。

 

コーチングはWANT TOで生きること、自由で生きることの提案をするが、思いの他言語により束縛されていることに気づかず、悩む人が多い。

 

色々な束縛を外していかなければならないのだが、中でも無意識の中に深く浸透している言語による束縛にも目を向けてみよう。

 

なぜ赤信号で止まらなければならないのか。

なぜ目上の人がえらいのか。

なぜサラリーマンはスーツを着なければならないのか。

なぜ結婚するのに婚姻届が必要なのか。

 

などなどこの世の疑問は掃いて捨てるほどあるが、これら全て言語で表現されるものだ。

 

言語宇宙を徹底的に見ていくことにより、スコトーマはどんどんと外れていくことになる。

 

なのでおすすめしたい。

 

しかし、徹底的に知識を入れていく以外に道はないので最終的に勉強しようという帰結になってしまう。子供も大人も勉強をしないといけない理由である。

 

Ancient Greece : Philosopher Writing