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スポーツの本質は楽しむこと

 

プロスポーツ選手やオリンピックでメダルを目指す選手は果たして、そのスポーツを楽しめているのだろうか?

 

そんなことを考えてみたい。

 

まず、プロはファンのために勝つことが要求されるし、楽しんでいたのではすぐにクビになってしまうかもしれない。年棒に見合った成績をあげる必要がある。楽しむことよりも重要なことがあるのがプロの世界だろう。

 

オリンピックのメダルを目指している選手にしても、心、技、体と徹底的に鍛え上げた人々の中でその頂点にいこうとするのだから、楽しむなんていってはいられない世界だろう。

 

好きではじめたその競技がいつのまにか楽しむことからかけ離れた世界に連れて行かれる。そんな体験をしている選手が多くいるのではないか。

 

スポーツというものはそのゲーム性を楽しむものである。
だからこそ、体重別、や年齢別、性別、プロとアマ、などに分けて公平性を維持しているのだ。

 

不公平な競技なんてやっていてもおもしろくない。
私が小学生にサッカーを教えていたときがあった。小学生同士の試合の中で人数が足りないということでコーチが入ったりすると突然子供たちはやる気をなくす。低学年の試合に高学年がはいってもぶーたれて、やる気をなくしたりする。

 

子供ながらに公平性を保てなくなったゲームは敏感に感じ取り、面白さを感じなくなるようだった。

 

逆にこんなケースもあった。私が子供のころ近所の公園で、野球をしていると隣で野球をしているグループに試合を持ちかけることがあった。私たちは小学5年の友達と二人、相手は小学6年二人、小学4年三人、2対5の試合だ。しかし、なんとなくの力量からちょうどいい勝負ができていた。双方が楽しめていたのだと思う。

 

こんな遊びからもっとゲーム性を高めたほうがおもしろいとう発想から、審判がついたり、人数を合わせたり、コートの大きさを統一したり、大会を開催したりとなっていったのが今のスポーツだ。

 

あくまでも、公平性を維持した中でゲーム性を楽しむものがスポーツである。

 

プロ選手はファイナンスという目的でのスポーツをしているという要素が加わる。

それはやっている側が主役なのではなく、見ているファンが主役な場である。それはお金を払う側の期待にこたえるという職業だからだ。

 

ファイナンスという観点からは確かに選手がスポーツを楽しむということができないかもしれない。

 

しかし、ここで何度も超一流アスリートになるための方法論を示しているが

 

スポーツが楽しいことでななく、義務感になるとパフォーマンスとしてのその能力が一気になくなってしまう。

 

プロフェッショナルな世界に身をおいたスポーツ選手とはもともとは、天才などとよばれた存在で、あまりにもすごすぎて、その技量はこのステージでは不公平だよなという感じで、次のステージ、次のステージと活躍する場を高いステージにあげてきた人たちであり、

 

あくまでも自分と同じぐらいの相手と戦ったほうが楽しいというスポーツ本来の公平性を維持している世界だ。

 

そこに職業になった点で、ファイナンスという観点がはいり、楽しさを維持することができなくなったような気がするかもしれないが、

 

そこで自分の全力を尽くして相手との戦いに勝つことや自分の演技を披露することは今でも楽しいことだと思う。

 

やはり、プロでもアマでもいくつの年齢でも、男でも女でも、大人でも子供でも、スポーツは楽しむものであるのだと思う。