オフィシャルブログ

馬鹿という人こそ馬鹿である。

 

今日は知識について考察してみたい。

 

俗に馬鹿というやつが馬鹿なんだ!なんて言葉をよく耳にする。今日の説明もこの言葉の証明といってもよいかと思う。私も馬鹿というやつ、若しくは自分を賢いと思っている人ほど馬鹿の可能性が高いと思っている。

 

それがなぜかということだ。

 

この宇宙は物理宇宙と情報宇宙から成り立っている。古来。この宇宙のカラクリを解き明かそうと人間はチャレンジしてきた。その成果が様々な学問として伝わっている。それを学んでいく機会を設けることを教育と呼んでいる。

 

私たちは教育を受け、また様々な経験をしてこの宇宙のカラクリのほんの一部分を知っている。知っていることが知識にあたる。

 

この宇宙のカラクリを全て知るということは全知全能の神を目指すということになる。私たちは何もそこまでいきたいとは思わないまでも、そんな存在になれたらななんて憧れを抱く。

 

知識とは一般的にはあると賢いとみなされる。

ないと馬鹿とみなされる傾向があるように思う。

 

しかし、知識がある人に限って、自分を賢いと思っている人に限って、知りたいという欲求が少なくなってくる。

 

逆に知識がなくても知りたいという欲求を持っている人は成長をしていく。

 

そのように考えると知識があるからよい、ないから駄目だとは簡単に言えないことに気づく。

 

この宇宙ははるかに巨大な情報宇宙であって、全情報を知るとことはとんでもなく難しい。仏教用語でいえば、空を知る。悟るということだ。それは至難の業である。

 

私たちの場合の知識とはその巨大な情報宇宙の中のほんのほんの一部分を見ることができるだけの知識ににも関わらず、それを賢いと思って、学びをやめてしまえば、そのほんのほんの一部部の情報宇宙が全てだと思う、お山の大将となってしまう。

 

そちらの方が馬鹿と呼ぶにはふさわしい。

 

コーチング的にいえばコンフォートゾーンの中で偉そうにしているやつになってしまう。スコトーマだらけの人間になってしまう。私たちはコンフォートゾーンの外にゴールを設定するというルールを知っている。そしてゴールが近づくと新たなゴールを設定するというルールを知っている。

 

ゴールが近づくと新たなゴールを設定するということをよく考えてみると、永遠にゴールを目指しているという状態である。すなわち死ぬまでゴールを追いかけているということになる。

 

知識もそうでずっと学び続けることが大事なのだ。

 

決して、知った気になってはいけない。

 

知った気になった段階で馬鹿になる。

 

私たちは巨大な宇宙を探求していくが、その宇宙ははるかに巨大だ。簡単に到達できる場ではないが歩んでいく。知るために歩んでいく。全てを知ることができずに終わるかもしれないがそれでも知るために歩みを止めない。

 

私も昔は大馬鹿野郎だったと思う。臆病なくせに自分を過信し、限られたコンフォートゾーンの中で偉そうにふるまう人だった。だからこそ今は馬鹿にならないように心掛けている。全てが学びの場であり、そこには自分のスコトーマに隠れた新しい情報があるのではないかという視点を常に維持できるようにしている。だから多くの人や物は私に新しい情報を与えてくれるので、常に新鮮で感謝である。

 

私たちは馬鹿にならないために無知に気づかなければならない。

 

そして少しづつでも成長していくことが喜びである。成長に向けた歩みそのものこそが喜びなのである。

 

up up away