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「微力ながら」という言葉とエフィカシーと抽象度

苫米地式コーチング認定コーチ 山本敦志のブログ

微力ながらお手伝いさせていただきます。

微力ながら一生懸命頑張ります。

 

という言葉を聞いて思うことがあるのでそのことについて触れてみたい。

 

まず、自分で微力と言っている段階で好ましい言葉の選択とはいえない。しかし、日本では謙虚が美徳とされるので、相手に与える印象をよくしたいという意味合いではまあ良いかなとも思う。

 

ただし、その場合はあくまでも、社交辞令的にこの言葉を使っているという自覚が必要だ。

 

高いエフィカシーを維持するために、セルフトークに気を付けている人は絶対使ってはいけない言葉になる。

 

なぜなら、あなたの力は微力ではない。もし微力と言ってしまえば、微力しか出ないし、微力の持ち主になってしまう。

 

微力ではゴールを達成させる力は弱いし、叶う可能性も圧倒的に下がる。

 

心の中では「すごい大きな力で」と思っているがコミュニケーションの関係において角が立たないように裏腹な言葉の選択としての「微力ながら」はOKだが、心の中も「微力ながら」と思っていたらだめだ。

 

だからすごい大きな力でお手伝いします。私はすごいですから。というべきなのである。

 

これがエフィカシーであり、そう思っている人は本当にすごい力がでる。それを知っていると自然にそんな言葉がでてくるものだ。

 

謙虚は美徳という文化はそろそろ変えてもよいのではないか。

 

もちろん、鼻につく人になるかもしれないが、時代を超える先駆けとなる人は大いに鼻につく人になってはどうだろうか。

 

若しくは、建前として謙虚を使う。そんな選択肢を選ぶか。それもよい。

 

しかし、絶対に心の中では「微力ながら」はNGだ。覚えておいてほしい。

 

またこのテーマでもう一つ触れておきたいのは、心の中で「微力」としか思えない場合のことだ。

 

私の存在価値が低いといってもよいかもしれない。

 

この場合は抽象度を上げることを意識してみて欲しい。

 

抽象度をあげると視点があがる。

 

スポーツにおいても選手は一つの駒としての動きが望まれる。その場合は確かにサッカーでいえば11分の1、野球で言えば9分の1になるので確かに微力になるかもしれない。

 

しかし、監督という視点にたてば、おのずと微力という言葉を選択しないだろう。大きな力を振るうポジションに位置するのだから。

 

もっと抽象度をあげるとそのチームのオーナーの視点でチームのことに対して、仕事をする場合はチームに対してもっと高い影響力を発揮する。

 

その場合には「微力ながら」という言葉は使わないだろうことは理解できると思う。

 

なのでどうしても、「微力ながら」としか思えない人は抽象度という考え方を意識し、視点をぐぐっと上に持ってくるトレーニングをしてほしい。

 

エフィカシーと抽象度を上げる。

 

すると「私のすごい力をお貸ししましょうか」という言葉が生まれる。

 

または「私はすごいですから」という言葉を使い続けることにより、エフィカシーと抽象度が上がる。

 

両者は双方向的な関係なのである。

 

kuu