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我々コーチングに携わる者はエフィカシーという言葉を日常茶飯事的に使う。だけどその言葉の定義が本当にわかっているのか。
本当の意味でエフィカシーを理解するために解説してみよう。
エフィカシーとはゴール達成する能力の自己評価のことと言われる。
またはコンフォートゾーンのレベルとも言われる。
一体どういうことか?
コンフォートゾーンとは自分がリラックスして能力を発揮することができるところ。例えば地区ではナンバーワンの評価を得ている野球チームがあったとしよう。そして下馬評どおり地区大会で優勝した。そして県の大会に出場することになった。緊張したがなんとかそこでも優勝することができた。そして全国大会に行くことになった。すると場違い感や緊張感、アウェイ感などにより力を発揮できなかった。こんな場合を考えてみたときに地区大会で優勝した時にはリラックスして能力を発揮できる場であったということだ。これをコンフォートゾーンという。
そして全国大会で力を発揮できなかったのはコンフォートゾーンの外にでてしまったからであり、リラックスして力を発揮していたら全国大会でも優勝していたかもしれない。
我々の持っている能力を最大限に発揮できる場がコンフォートゾーンである。
そしてコンフォートゾーンのレベル=エフィカシーとは
この場では私はこれぐらいの能力を発揮してこれぐらいの成果を収めることが当たり前であると思っていること。確信していることをエフィカシーという。
できて当たり前と思えていることがエフィカシーなのだ。
それは逆にいうとコンフォートゾーンでなければ思えるはずがない。だから、コンフォートゾーンのレベルとエフィカシーが同じだということなのだ。
エフィカシーは自信のことだと思われたりするのだが、当たり前にできることは自信とは言わない。当たり前にできることをすごいとか思わない。普通なのだから。エフィカシーとはそういうものである。
はたから見ると自信があるように見えるかもしれないが、当の本人は自信でも自慢でも何でもない。当たり前に思っているということ。
だから、エフィカシーを高めるとはなりたい自分のイメージが当たり前になるまでコンフォートゾーンになるまでそのイメージに慣れ親しむということになってくる。
なりたい自分のイメージは最初はコンフォートゾーンではない。それをコンフォートゾーンにイメージの力で持ってくる。そしてエフィカシーとは未来のコンフォートゾーンに対して今、当たり前と思うように持ってくるということなのだ。だからできていないことでもできて当たり前と思う勘違いもエフィカシーといえる。それを大いなる勘違いと言ったりもする。
そしてそのための具体的方法論がアファメーションということなのだ。
今日からあなたも大いなる勘違い=エフィカシーを持って、歩んでいってはどうだろう?
私の机の上には地球儀がある。
これはなるべく抽象度を高く維持するために置いている。世界の色々な地域に思いを馳せて思考の訓練をしている。
ところでこんなことを考えたことはないだろうか?
抽象度を上げて何の得があるの。今私の欲しいものはブランドのバッグよ。俺の目標は出世することだし、世界のことなんてそれには関係ないぜ!
今の自分の目標や悩みと抽象度の関係性をなかなか感じられないかもしれない。しかし抽象度を上げるとその悩みが消えるのだとすると、すこし抽象度ってどうやってあげるの?なんていう興味がわいてくると思うのだがどうだろう?
厳密にいうと抽象度が上がると悩みが消えるというより悩みが変わるといった方がより正確かと思うが、その今の悩み自体は消えるのだから消えるでもよしとしよう。
例えばだ
夫婦喧嘩が絶えない。夫婦がうまくいってない悩みがあるとしよう。もちろん嫁姑でも、子供との関係でも同じだ。
ここでは夫婦を例に挙げて説明する。
夫は夫のブリーフシステムを持ち、妻は妻のブリーフシステムを持っている。そんな二人がある一つの問題に対して意見をいいあう。子供の育て方であったり、住む場所への望みであったり、お金の使い方であったり、などなど。
大抵、そんな二人の喧嘩になる理由はひとつだ。
なぜあいつは俺の、私の考えがわからないのだ?
自分の意見を押し通したくて喧嘩になる。というか違う意見を持った二人が折れない状況を喧嘩というのかもしれない。
とにかく、相手のことが理解できなくて喧嘩になるのだ。
そしたら、ここで抽象度だ。抽象度を上げるとはどういうことなのか?
この問題を一段高い抽象度で俯瞰してみる。すると夫と妻のブリーフシステムがあるのだと理解する。
簡単に書いたが、これはすごい重要なことです。
私のブリーフシステムがある。それと同じように他者にもブリーフシステムがあり、価値観があり、思想があり、独自の経験があるのだ。
そしてそれは当たり前だが、同じものもあれば、違うときもある。
高い抽象度からみるということは私のブリーフシステムと他者のブリーフシステムがふたつ同じ価値で見えるということだ。
わかりやすい言い方をすると
私はこう思う。だけど彼、彼女はこう思うんだ。とすれば二人でこうすれば一番いいよな。という答えを導き出すことができる。
喧嘩とは自分の考えを相手に受け入れさせたいという欲求により起こる。だけど自分の欲求と相手の欲求が同じ価値であれば受け入れさせたいとはおもわない。解決策は違う者同士がどうやればうまくいくかを発見することにあるという結論になる。
抽象度をあげるとはこういうことなんだ。
自分のことだけという抽象度もあれば、家族の抽象度もある。そして抽象度はいくらでも高く昇っていくことができる。地域の抽象度、国の抽象度、世界の抽象度、宇宙の抽象度・・・
抽象度を上げるとは我々にとってすごく身近な問題を解決することに繋がるということを理解してほしかったがどうだろうか?
まずは自分が上がって相手の価値観を理解してみる。そんなことにチャレンジしてみてほしい。
2016年の最初のブログだ。
新年のコーチングブログにもっともふさわしいのは、やはりゴール設定だろう。
あなたは新年のゴール設定はされただろうか?
ゴールは更新していくのがよい。昨日の自分と今日の自分は違っている。一秒前の自分と今の自分も違っている。それと同時にゴールも変わっているかもしれないのだ。それを見直していく作業はとても大事だ。日々、一分一秒新しい自分に生まれ変わる。そのたびごとにゴールも更新される。それでよいのだ。
新年と昨年の違いなんてない、ただいつもと同じように時間が過ぎていっただけだ。しかし、普段ゴール設定と更新をしていない人にとってみればそれをおこなう格好の瞬間だと思う。是非ともこの機会にゴール設定、更新をしてみよう。
ところでゴールがある人生と、ない人生との違いはとはどんなものだろうか。
私はコーチングに携わるようになって、この違いを恐ろしいぐらい痛感するようになった。
ゴールはスコトーマを外し、新しい自分に生まれ変わるための唯一のツールだ。ゴールは自分で自由に決めることができるわけだから、ゴールを考えていること自体が自由意志の行動である。
ゴールがある人は自由意志を持った人だといえる。
逆にゴールがなければどうなるか?
これが私は恐ろしいと思うようになったところだ。
ゴールがなければ、変わらない。変わらないとはどういうことか?
ゴールがない人とは物事の考え方や、選択、決断、これが毎回同じような答えをだす。コーチング用語でブリーフシステムというのだが、このブリーフシステムはあなたに毎回同じ答えを出させようとする。
コーヒーにしますか?
紅茶にしますか?
と聞かれたときに毎回同じ答えをだすのと同じように。
しかもその選択は大抵、親や教師などの子供の頃に植え付けられたブリーフシステムから生まれているのだ。
怖くないですか?
ゴールのない人は自由意志で生きていないのだ。誰かの価値観を植え付けられ、それを受け入れ、信じた瞬間からその誰かの価値観で世界を見続けている。
そしてそれが世界のあり方、自分の価値だと思い込んだままで抜け出すことができないのだ。
私はそれをとても怖いことだと思うようになった。
自分の自由意志で生きること以上に価値のあることがこの世にあるだろうか?
本来の自由意志での選択、決断こそ何よりも価値があるものだと思う。
そしてその自由意志を手に入れるためのツールがゴール設定なのですよ。
誰かがあなたに書き込んだブリーフシステムでもって生きていくのか。
あなたの自由意志での選択での人生を選ぶのか。
そのすべてがゴール設定からはじまる。
新年この機会にとんでもない大きなゴールを掲げてみてはどうだろうか。
今回はコーチングとはどういったものなのかを説明しようと思います。
コーチングとは何かを一言でいうと、「ゴールを達成するお手伝い」ということになるかと思います。
では、なぜコーチングを受けるとゴールが達成されるのか?
まずはなぜゴールが達成されないのかを考えてみましょう。それは「私はゴールを達成することができない」というブリーフシステムを持っているからです。
コーチは「ゴールを達成することができる」というブリーフシステムに書き換えます。このことをコーチングというのです。どうですかシンプルでしょう。
しかし、この説明だけでは「どうして初めて会った人にそのゴールが達成されるなんてことがわかるんだ!」「その人のことを知らないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
では、逆に質問です。
あなたはどうしてゴールが達成されないと思っているのですか。できないという根拠を示すことができますか?
もちろんできない理由はどんどん浮かんでくるかもしれません。しかしそれは絶対ですか、それが正しい、絶対だと証明できますか。その境遇を乗り越えて成功している人と自分の違いを、自分が心から納得できる説明をすることができますか?
コーチングを支えているのは巨大な理論体系です。私の理論体系はルータイス、苫米地博士の理論に依るものです。
そのコーチングの結論として、「できると思ったことができること」というプリンシプルがあります。
このプリンシプルだけです。
できると思えばゴールは達成されるのです。できるというブリーフシステムになってしまえばなんてことなく、ゴールは達成されるのです。
あなたが今までどんな過去を持っていようが、どんな境遇だろうが、そんなことはゴールを達成されるか否かとは関係がないことを我々コーチは知っているのです。
だからそんなに深くあなたの過去を知らなくても、自信を持って「できると思うよ」ということができます。
そして、不思議と人は心からできると思う人が隣にいるとゴールが達成されてしまうのです。
これがコーチングというものです。
諦めるということは「私にはできない」ということを受け入れるということです。諦めずに達成したいゴールは持つほうがいいと思います。その方が人生は楽しくないですか。だってできると思えばできるのですから。
これが人の可能性は無限であるということです。
コーチングは無限の可能性に気づいてもらうことであり、無限の可能性を求めて新しい自分への冒険をしていく人のために応援をすることだと思っています。そしてそのコーチングの効果というものも計り知れないものだと思います。
人は普通に生きていると情報空間の存在を感じることはあまりないのかなと思います。
しかし、実はそんなことはなく我々人間は当たり前のように情報空間の中で存在しているのです。
昨日、お風呂に入っていました。追い炊きのスイッチがオンになっていたのでどんどんとお風呂が熱くなってきました。まだ大丈夫かな、まだ大丈夫かなと様子をうかがっていたのですが、だめだ、これ以上熱くなりすぎると気持ち良さが半減してしまうとのことで、追い炊きスイッチを切りました。
ちなみに文字にするとまるで気持ち良さが半減してしまうと意識的に考えていたように思えるかもしれませんが、今回はそんなことはなくほとんど無意識的になんか熱いな~ぐらいでした。
このことを冒頭の話に置き換えてみると
スイッチをオフにしたことが物理的な世界での作業です。
人はこれらのことにしかあまり気を払っていないのではないかということです。
しかし、その前に熱いから気持ちいい温度にしようというイメージがあったわけです。
その結果、スイッチをオフにしたのです。
当たり前の話ですが、でもきちんと情報が先で物理はその結果だと認識することはとても重要です。
でなければ我々は情報の操作で夢を叶えることができる、自分を変えることができるといったこともつい忘れてしまうものです。
脳は先にイメージをします。そしてその結果、選択したことを行動に移すのです。そしてその行動の結果が今、あなたの置かれている現状ということです。
ですから、行動を変えるのではなく最初のイメージを変えることが夢を叶えたり、自己実現を叶えたりするのです。
お風呂のお湯の気持ちいいイメージが先にあったから、スイッチのボタンを押したのです。
イメージを変えてみましょう。
そしてその後の行動はそのイメージ通りに無意識が勝手に行動することになり、そのための努力などは一切必要ないのです。
年末になり、慌ただしい毎日を過ごしている方も多いのではないでしょうか。
私も年末ということで、大量の本を整理してみました。
本は趣味でもあるので、いつのまにか量が増えてしまいます。量が増えると、本棚の奥と手前の両方におくようになって片づけでもしない限り、奥の本を読み返すことは絶対になくなります。
ですから、本棚を増やすか本を処分するかの選択になるのですが、家の都合上無限に増え続けそうな本をストックできるようなスペースの確保はやはり難しいです。
ということで処分を選択しました。
残す本と処分する本、これらをどう分けるか。
皆さんも同じようにされていると思いますが、自分にとって重要な本と重要でない本の選別をします。
我々の自我も同じで私が私だと思っている私とは本来、空なのでこれ!と取り出すことのできないものです。すると私とは何々だという情報で私を定義しています。
その情報は本の選別と同じように重要であるかどうかが振り分けの基準となっているのです。
自分にとって重要であると思っている事柄の集合が自我だということです。
そんな視点から、本棚を見てみると本棚は考え方を形成しているものでもあり、自我を形成しているものであるといってもいいと思います。だから誰かに本棚を見られるとちょっと恥ずかしかったりするときもあるのです。
その本棚を整理すると、自我を整理しているような気分になりとても気持ちがいい。
本棚だけではなく、家の整理や整頓をすると自分の頭の中が整理されることなので、定期的な整理は欠かせないことですね。
皆さんも年末に向けて物理場と情報場の整理をして、新しい年と共に新しい自我を手に入れて欲しいと思います。
包摂半順序束のトップが空であるという説明をした。
そして自我は宇宙に対して自分を頂点とした重要性の順番で並んだ部分関数だという話もした。
情報量の大小で並べた順序集合のトップも空なら、自我という頂点も空である。
これがこの世も空だし、自我も空であるということなのである。もう少し簡単にいうとこの世は幻想であり、これが私だと強烈に思っているような私はあるとも言えるしないともいえるような空なる存在であるということだ。
この話は我々にどんなインパクトを与えるのだろう?そんなことを考えてみたい。
仏教の出家者やよほどの哲学好きでないかぎり、空のことなんか考えたことはないかもしれない。しかし、古来から人間の意識を考えてきた賢人たちのふるいにかけられ残ってきた空という概念は我々に大きな気づきを与えてくれるはずだ。
結論から言うと苫米地理論というか苫米地博士の教えでは中観で生きるために空という概念を知った上でこの世界を認識するこの世の見方すなわち空観が欠かせないといっている。中観とは空観をわかったうえで仮であるこの世界(仮観)を全力で生きる生き方こそが現代に生きる我々の最高の指針であるということだ。
その意味でも空は徹底的に知る必要がある。まずはこのことを頭の隅にでも置いておいてほしい。
ただ中観の話は違う機会にするとしてコーチングにおける空という概念の重要性をここでは考えてみる。
コーチングにおいてもゴールの臨場感をイメージするうえでも空という概念はとても役に立つと思っている。なぜならゴールが達成されないのは現状のホメオスタシスが強くて引き戻されてしまうからという理論があったことを思い出してほしい。その時にゴールの臨場感を強力にするには現状という世界そのものが幻想であるという意識を持てば、なんだ、同じ幻想ならゴールが達成された方がいいじゃんと無意識も思いやすいということだ。
みんな誰でも現状に対して強烈なリアリティを持っている。その強烈なリアリティとはこの世界が幻想ではないというリアリティである。
悩みがあるとする。悩みがあると思っているから悩んでいるのだから、つまり悩みなんて幻想だなんて思っていないということだ。
世界が空であり、自我も空である。
しかし、空である世界も自我も自分が作り出しているのも事実だ。現状もゴールも自分が作り出した空なる世界、幻想の世界だからこそ、無意識はゴールを選択できるのだと思う。
いかにこの世は自分が作り上げた空なる世界と思えるかどうか。
コーチングにおいても、自由に楽しく生きるというテーマにおいても非常に重要な概念である。
4回にわたって苫米地博士の言葉を借りて形式定義をやってきた。
みなさん、だから何やねん!と思っているかもしれない。
実際、周りでも面白くないなどと言われた。
だから、何のために、結局何が言いたかったのかをこれから説明していこうと思う。
古来から人々は悩み、苦しみ、変わりたいと思いながら生きてきたと思う。そして多くの人が過去にどうすれば人は幸せに生きれるのかを考えてきただろう。
そして、偉大な哲学者や宗教者、それに数学者、物理学者、芸術家を生み出してきた。
私は苫米地博士もその一人だと思っているので、熱心に学ばせてもらっている。
2600年前に釈迦が悟ったとされている。そして悟った内容が空というわけだ。そしたらみんなが空ってなんですか?と釈迦に聞きたかったのだと思うが、釈迦は空については語らず、縁起という説明原理を説いたとされている。空は説明することは難しく、縁起という説明原理を通して空にたどり着いてもらいたかったのだろう。しかし釈迦は月を指さして、月(空)を見よ。指している指(縁起)を見るなと言っている。つまりみんなに説明原理の方ではなく、空の体感こそが悟りであると伝えたかったのだ。
現代科学では、相対性理論から量子論の時代になり、ひも理論の時代になった。この現代でも釈迦が悟って教えたかった空というものが量子論やひも理論の帰結と同じであるとのことから空という概念は改めて注目されるようにもなった。
それほど貴重な空という概念。
だからこそ我々は空という概念を知り、そして体感できるようになる必要性を感じるはずなのである。
現代では空を悟るのは誰でもできる時代になったと苫米地博士は語っている。
空を悟ったうえでどうやって生きるのかが問われるということだ。
だからまずは空という概念を徹底的にマスターしようということで、形式定義から入ってみた。
形式定義はなんとなくそんなもんねーとして捉えてくれたらいいです。正直私も、数学や哲学のプロフェッショナルじゃないので深い知識は持ってません。
しかし、大切なエッセンスはここからきちんとつかんでもらいたいと思っている。
続く
苫米地博士の宇宙の形式定義をしたうえで、今回は空の形式定義をやっていこうと思います。
包摂半順序束の宇宙において任意のふたつの概念もしくは存在をとりだします。
その二つの概念もしくは存在のGLBをbottomといいます。
そしてその二つの概念もしくは存在のLUBをtopといいます。
包摂半順序束の宇宙のbottomとはなんでしょうか?
これを現代分析哲学では矛盾と定義します。
そして包摂半順序束の宇宙のtopのことを空と定義するのです。
例えば、ペンと犬という二つの存在をとりだして、そのふたつの下位概念を考えます。ペンなのにワンと鳴く存在。ワンと鳴くのに書くことができる存在です。これを矛盾と表現するということです。下位概念の内のもっとも下位にあるものを矛盾というのです。
またペンと犬の上位概念はどうでしょうか?
現代分析哲学ではこれはいくらでもあるので特定の概念が存在しないとされているようです。
しかし、苫米地博士は東洋の仏教哲学を使って、これを空と定義すると言います。
空とは宇宙の何よりも上位であり情報量の少ないもの。
包摂半順序束のtopであり、宇宙の全てを潜在的に内包しているものとして、定義しているのです。