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コーチングの理論を結構わかっている方からこのような質問をされた。
「変われないのはなぜですか?どうすれば変われますか?」と
コーチング理論をよくわかった上での質問なので「現状のホメオスタシスが強いから」などの理論的な答えではダメだろうと判断して考えた。
なので「あなたが変われないと言っているから」と答えた。このような応対はルー・タイスとその質問者との間でもあったことを思い出した。そしてルー・タイスの気持ちが少しわかったような気がした。
コーチング理論を学んだが結果が出ないという人は少なくない。それは理論を学ぶことと実践することとは全く別だから。それが一点。もう一つは理論が本質的にわかっていないから。
今回、感じたことはエフィカシーがわかっていないのではないかということだ。
エフィカシーが高いという言葉の意味である。
まず、コーチングにおいてセルフトークのコントロールを特に重要視している。この場合でいうと「変われないのはなぜか」という質問自体が「私は変わることができない」というセルフトークになるわけだ。なぜそのようなセルフトークが出現するかというとエフィカシーが上がっていないからといえる。
エフィカシーがあがっている状態では、ゴールのことしか目に入っていない。そしてそれができると確信している。「変わる」=ゴールであるから、エフィカシーが高い状態とは変わっているイメージしか持っていない状態なのだ。
エフィカシーが高い状態では「なぜ変われないか」という質問自体が存在していない。
なぜなら「変われない」とは、過去に変われなかったということだから。エフィカシーが高い状態とは未来のゴールを強くイメージできていて、叶うと確信している状態だから、過去に変われなかったことは、次に変わるためにはこの方法でななかったなぐらいの学びにしか思わない状態である。
この質問は言い換えると過去に囚われている質問なわけだ。
エフィカシーという言葉を学ぶ意味とは自分がエフィカシーを身につけるためである。エフィカシーを身につけるとはエフィカシーが高い状態の言葉を使うということと言ってもよい。それがセルフトークのコントロールということになる。
ブリーフシステムは長年の習慣により蓄積された価値体系だ。それはもちろん強烈なホメオスタシスでその状態を維持しようとする。
それを意識的に変えていく上でコントロールできるものは、ゴールへのイメージとセルフトークのコントロールしかないのだ。
だからこそエフィカシーの高いイメージを持ってエフィカシーの高い言葉を使い続けることが重要なんだ。
重要というか全てだ。
気を付けるのでもない。なりきること。そのイメージに馴染むまでなりきる。最初は気持ち悪いかもしれないが、いづれ馴染む。馴染むことが変わることなのかもしれない。しかし、馴染んだ時にはそれが普通の私。エフィカシーの高い状態が当たり前になる。その時にはまた次のゴールを探しにいっているはずだ。
エフィカシーは思っている以上に重要な概念である。ゴールの達成も変化が起こることもその原動力はエフィカシーである。エフィカシーなくしてそれらは期待できない。もう一度エフィカシーという意味を考えなおしてみてほしい。
そしてセルフトークのコントロールも高いエフィカシーを維持するためのものであることを覚えておいてほしい。
高いエフィカシーのあなたはどんなセルフトークをするだろうか。
まずはルー・タイスの言葉から
敗者のほとんどは、自分の人生を「しなければならない」だらけの状況で過ごします。何をやるにしても、自分の行動に責任を持とうとしません。
「しなければ」というたびに、個人的責任を放棄するだけでなく、自尊心も引き裂いています。「しなければならない」は、「これは本来の私ではない。誰かが私をコントロールしている」を意味します。「しなければならない」状況では、常に自分に「やるよ。でも、もし自分の好きにできるとしたら、別のことをする」と言い聞かせています。それは、「私は自分の意志に反して、強制的にこれをやらされている」ということです。
どうだろうか?多くの人にとって突き刺さる言葉なのではないだろうか。
自分のやる行動に「あ、あれしなきゃ!」というセルフトークを何気なくしていないだろうか。
ルー・タイスはその言葉を使うたびに、自尊心まで傷つけていると言っている。
思い通りの人生、ゴールを達成する人生を目指す人がこのブログを読んでいると思う。そのためには「しなければならない」ことを人生の中から排除していくことが必要だ。
(排除しなければならないのでなないですよ。排除したいですよ。何気に排除しなければならないというような思考をする人は今日から変えていこう。)
今から自分がどれだけしなければならないことをしているのか。またそのようなセルフトークをしているのかを見直してみてほしい。
そして、したい。しよう。と思うことをするようにしてほしい。またしたい。しようという言葉を使うようにしてほしい。
もちろんやりたくないことをしたいという言葉を使うという意味ではない。自分が選択したということ自体がしたいことであるはずなのだ。
この世界に「しなければならない」ことなんてない!
もしあると思っているのならそれは誰かにそう思い込まされているだけだ。
この世界に「しなければならない」ことなんてない!
やりたいことがそこら中に広がっているのがこの世界だ。
楽しいことがそこら中に転がっているのがこの世界だ。
やりたいこと、楽しいことを片っ端からやっていくことが生き方だ。
人は生まれたいと思って生まれてきたわけではないし、死にたくないと思っていてもいつかは死ぬ。
しかし、生きている間に、やりたいこと、好きなことを選択して生きていくことはできるはずだ。
今日からそんな考え方で生きてみてはどうだろうか。
今日はビジネスコーチングについて
私も水道工事の会社とコーチングの会社を経営している。
会社経営をしている方にとって、またはチームを組んで何かを達成しようとしているリーダーにとって、コーチングとは役に立つものだろうか?
今回はそんなテーマにしてみよう。
結論から言うとゴールがある人にとっては劇的に効果があがるだろう。というのもゴールがなければ何の役に立つのかの定義ができないのでゴールがあるという大前提でいえばコーチングは役に立つ。
ではなぜか。
それは会社を経営している人にとっても、社内におけるチームにとっても必ずスコトーマができるからである。
コーチングでいうところのスコトーマとは心理的盲点のことである。脳と性質上必ずスコトーマができる。
人の脳は重要であることと重要でないこととを選別して、重要なことだけが認識に上がるようにしている。そうして情報を取捨選択しなければ情報処理をすることができないからである。わかりやすくいうとパンクしないように処理できる範囲で認識にあげるような働きをしているのである。
詳しくは過去のブログhttps://www.yamamotoatsushi.jp/60014217/archives/80
ここで問題なのは、重要なこととは過去に重要だと判断したこと、というところだ。過去に重要だったかもしれないが現在の問題に使えるかどうかわからない。この急速な情報社会時代の中では使えない場合がほとんだ。日々変わっていく社会の中で、会社もその構成員も変わっていかなければならないことは感じていると思う。
しかし、我々の認識するブリーフシステムという機能は全て過去の体験が作り出しており、そしてスコトーマを生み出している。
だからこれからの会社にとって必要な情報もスコトーマになって目の前にあっても見えなくなっている可能性が高いのだ。
コーチングとはそのスコトーマを見つけ出しクライアントの目の前に見えるようにしていく作業のことをいう。
このような意味において会社にとってコーチングが役に立つといえる。
もちろん会社といっても会社をコーチングするわけでなく、コーチングの対象はやはり個人なわけで、つまり会社を運営している人のコーチングのことを指している。
少し、別な言い方をすると
長い間、生きてくると色々な体験をするのだが、その経験が会社をここまで育て上げた要因であると同時にこれからの成長を阻害する要因でもあるということだ。
それは経験と共にこだわりや偏見が備わったものの見方、価値観が出来上がっているということである。
これを認めるのは勇気のいることかもしれないがそのものの見方、価値観をガラリと変えることがスコトーマを外すことに繋がるのだ。
そしてその作業を共にする人をコーチと言い、その作業がコーチングである。私はこれからは会社にとってコーチングを導入することが当たり前になってくると思っている。それはスコトーマの理論が理解されたと同時にコーチングの必要性も理解されるだろうという期待だ。
私自身、経営をしながらも日々スコトーマを見つけるべく意識している。そしてその効果は劇的であり、確実である。
今回はバイオパワーについて。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーがその自著「監獄の誕生―監視と処罰」の中でバイオパワーという概念を提唱した。日本語に訳すと生権力となる。
バイオパワーとは「監視下における自己規制をさせる力」ようは「誰かにかんしされているという暗黙のプレッシャーがあると、実際には監視されていなくても、監視者の期待するように行動させてしまう力」といえる。
フーコーはバイオパワーを説明するうえでパノプティコンを持ち出して説明している。
パノプティコンとは刑務所の設計構想であり「全展望監視システム」のことである。
監視塔を中心にしてその周りを360度円形にぐるりと囚人の部屋が配置されている。囚人の部屋から監視塔の看守は逆行により見ることができないように設計されており、逆に看守はいつでも囚人を監視できるようになっている。
パノプティコンの狙いは看守が360度見張る効果よりも囚人が見られているかも知れないという心理効果を与えて逃亡を防ぐということだったというのだ。
そして、そのバイオパワーは監獄だけではなく、集団や種というものを対象にする権力技術として使われるようになっていった。
そして権力側が用意した思想や規制に従って生きるように国民を仕向けていくということにつながっていく。
今の社会もこのバイオパワーがガンガンに働いているといえるだろう。我々は常に誰かに見られているかもしれないという心理を持ちながら、決断、行動しているのだ。
バイオパワーは例えば、夜中にゴミを出していたら近所のおばさんに怒られた。なんて場合にも同じように働いている。
次に夜中にゴミを出そうとしたら、あのおばさんがまた見ているかもしれない。と思いやっぱりやめておこうという判断をするような場合だ。
本当に見ているかどうかではない。本人が見られているかもしれないという心理が働くことによって行動が決まってしまうということである。
もちろんそのような状態では自由な意思決定をすることが困難だ。というより当の本人も、自分のやりたいことをやることよりも、社会が期待する思想、規制に従って生きる方が心地が良いと思っているので、自由な意思決定をしているつもりでもそれは権力者の思うがままの意思決定だったりするかもしれないのだ。
無意識の領域までバイオパワーは深く入り込んでいる。
そして睡眠中の夢の中で何かに追われているような感じがして目が覚める。などという体験がをしたことがないだろうか。
しかし、そんなことも忘れて、また権力者の期待に応えるかのように、誰かに見られているかもしれないと思い、正しくあらねば、規制に従わねば、と無意識の判断を繰り返しながら生きている。
本当にやりたいことを見つけ、真の自由を手に入れるためにはこのバイオパワーに気づき、超えていく必要がある。
バイオパワーを超えて覚醒することの重要性はこの現代社会でも変わらないと思う。
コーチとなって以来、コーチの役割とはなんだろうかと問い続けている。
今現在は私はコーチの役割とはこのように考えている。
まず、コーチにとって重要なことは「人は変われる」「人は成りたい者に成ることができる」と知っていることである。そしてそれをクライアントに伝えるのが役割である。
もちろん、私も変わろうとすると葛藤が起きる。ブリーフシステムを変えようとすると現状維持のホメオスタシスが働き、変わることを阻止しようとする力に日々遭遇している。しかし「心から変わることができる」と知っているからそんな力にも負けずにいられるのだろうと解釈している。だからやはり知っているということがまず重要だ。
変わることがなぜできるかという知識は、苫米地式ではとても深い、知っても知ってもその奥がある。それは背景に哲学、数学、認知科学、脳科学、心理学などの学問体系がしっかりあった上での理論体系だからこそだ。それを学んだからこそ心から変われるとと思うのだろう。
しかし、どのようにすれば相手に伝わるのか?伝えるということをいかに効果的にしかも確実にできる能力がコーチの能力になる。
伝えるうえで重要なのがコーチの在りかただと考えている。つまり私自身がどのように生きているのかということ。私や私の仲間である、コーチがエビデンスとなっているのかどうか?
実践しているかどうか
コーチはすごい人ではないと思っている。(苫米地博士はすごいと思っているが)しかし、コーチは実践している人であることがとても重要だと思っている。実践すると恐怖、不安という者の存在を知る。そして勇気の必要性も知る。そんなことがわかるからこそクライアントの背中を押してあげることができる。
だからブリーフシステムをぶち壊すことを実践していることは要件だと思う。
コーチングのセッションではそんな空気感が伝わってクライアントもまたブリーフシステムをぶち壊してやろうという気になるのだろう。
するとだ。
クライアントもブリーフシステムをぶち壊して実践し始めた時点でコーチと同じになる。
そう私はコーチの役割とはリードすることだけではなく、クライアントだけにとどまらず、関係する人すべてと共に励ましあいながら、歩むことだと思うようになった。
コーチングにおける知識はあるゲシュタルトが形成されると「できる」「変われる」ということに集約される。至ってシンプルな知識だ。
そして実践とは日々起こることに対して、自分がやりたいように選択して、勇気をもって行動するということに集約される。
できると思って行動している人はコーチでなくてもたくさんいる。逆にコーチであっても乗り越えることができるのかといった不安を持つことだってある。
コーチとクライアント、親と子、師と弟子、すべての関係が双方向性を持っている。お互いに影響を及ぼしあいながらダイナミックな縁起の関係性を作っている。そんな風に自覚するようになった。
私がコーチとして影響を及ぼしていることもあるが、私がクライアントやアドバイスをした人から影響を及ぼされていいるということに気づいたということだ。
これからも私はあなたのコーチとしてより、自由に、より楽しく、より強く、歩んでいこうと思う。
もし、あなたが変わりたい、と思っているのなら共に歩んでいきましょう。そんなあなたに影響を及ぼされ、また成長することができると思っています。もちろんコーチングの効果はいうまでもなく絶大ですからあなたも大きく変わっていくことになると思います。
より高いゴールに向かって共に!
サッカー日本代表オリンピック予選がカタールでおこなわれている。
北朝鮮戦を見ての苫米地式コーチの観点からの感想を述べておこう。
率直な感想はどちらが実力的に優勢か、どちらに勢いがあるか、どちらの戦術が功を奏したかなど、よくわからない試合だった。
恐らく、お互いに初戦ということもあり、どちらも相当緊張していたのだろう。緊張の要因はやはり、国の威信を背負っているということによると思う。このブログでも何度も言ってきたのだが、リラックス状態でなければ本来の能力は発揮できない。とはいうものの国の威信を背負って戦うときに、しかも初戦で緊張するなというのもこれまた難しい。
しかも早い時間帯で、得点がはいったこともどちらのチームにとっても落ち着かない展開の要因であったようにも思う。
そんな中で、一人目に留まった選手がいた。10番の中島選手だ。私はマインドのコーチとして、コーチング的な見方になる。だからコンディションやフィジカルや戦術などの視点からではなく、マインド、メンタル、オーラなどの視点から見ている。その点で中島選手は一番エフィカシーを高く維持していたように感じた。
もちろん10番を背負っているのだからエースとして当然の働きなのかもしれないが、エースがエフィカシーを高く維持することができないとチーム全体がそれに引っ張られて弱くなってしまう。その点で緊張状態の中でもなんとか勝ちに結びついたのは少なからずエースの存在感があったからではないだろうか?私はそんな風に感じた。
しかし、当の本人のコメントは「アジアなので(勝てた)。五輪の初戦でこんなプレーをしたら大敗する」
さすがの高いエフィカシーだ。
自分は自分たちはもっとできる。こんなものじゃないといういい言葉だと思う。
もちろんチーム全体としての出来は悪く、中島選手も他の選手ももっともっとできるのだとは思うので次戦は危なげない戦いを期待したい。
日本はアジアでは最高のチームであるだろう。
そのエフィカシーを存分に発揮して予選を軽く突破してほしい。
心から応援しています。
内部表現の書き換えと抽象度についてのお話をしようと思う。
抽象度は情報空間から物理空間まで連続的に広がっている。内部表現の書き換えはどの抽象度においてもできる。
しかし抽象度の高いところから低いところへの影響は容易だが、逆の低いところから高いところへの影響はあまり期待できない。
これは内部表現書き換えのプリンシプルだ。
プリンシプルだけだとわかりにくいので、例で説明してみよう。
例えば、いじめられていて学校に行きたくないと思っている、子供がいるとしよう。時に親は強引に引っ張って学校へ連れて行く場合がある。
いじめられていて学校に行きたくないと思っているのは心であり、それは抽象度でいえば物理より上位に位置する情報空間にあるこころが影響をうけてしまっているのは明らかだ。それは誰でも理解できるだろう。
しかし、この親がした行動、引っ張って連れて行くという行為は抽象度でいえば情報空間より下位に位置する物理空間の体を引っ張ったわけだ。もちろん、親は子供の内部表現を変えたくてやったのだろう。強引に連れて行けば内部表現がかわると思ったというか、そのやり方しか知らなかったのか。
とにかく、物理的な影響でもって問題を解決しようとした。
誰でもわかると思うがこれで、子供が立ち直り、学校に行き始めるはずはない。
それは物理的に学校に行かないという行動は、抽象度でいえばその上位にある情報空間に存在するこころに問題があったからだ。
内部表現の書き換えはこの情報空間に働きかけることが必要になってくる。
情報空間に働きかけるためには抽象度の高い思考ができなければならない。この場合であれば、なぜ子供が学校に行きたくないのか、学校でどんなことがあったのか、誰にいじめられているのか、その子にとってどんな解決をすればまた楽しく学校に行けるのか、そもそもその学校に行く必要があるのか、などなどとその子のこころに影響を及ぼしている関係性を見抜き、そしてその子の内部表現つまり、心がマイナスからプラスになるように働きかける。
この例のように内部表現の書き換えとは、簡単にいうと心を変えるということである。
そして心を変えるとはより高い抽象度から働きかけると大きな成果が得られるということだ。
だから内部表現の書き換えと抽象度とはセットだと思えばよいだろう。
そして抽象度を上げることは容易ではないが、抽象度を上げていくことが生きるということそのものだと思う。言い換えれば人として成長、進化していくということだ。
私もその過程であるし、同じく皆さんもその過程であるのだろう。
共に成長、進化し抽象度を上げていきましょう。
可能性の限界を広げる方法を考えてみよう。
その前にコーチングにおいて可能性の限界を言い換えるとどうなるかを知っておいてほしい。
それはコンフォートゾーンであり、エフィカシーのことである。
コンフォートゾーンやエフィカシーについては何度もブログで書いてあるので見直してほしい。
自分のコンフォートゾーンは自分で決めている。だから可能性の限界も自分で決めているといえる。本来、人には無限の可能性があるのだが、コンフォートゾーンを定めてその中で安定的に生きようとする人の習性が可能性の限界をつくりだす。コーチングはそのコンフォートゾーンを自らでコントロールしていくことのお手伝いといえるのだが、とにかくコンフォートゾーンの外に出ていくことが可能なのだと徹底的に分かってもらおうとする。
そしてエフィカシーはそれができると思うちからのことだ。
可能性の限界は自分が作っている。だから自分の意識ひとつで限界を破ることはできる。
人はできると思うことができることで
できると思えないものはできない。
どんなに困難だと思えることでも自分ならできると思えればできる。そう考えると可能性の限界とは思える力のことといえることが分かってもらえると思う。
そしてその力のことをエフィカシーと呼ぶのだ。(厳密にはできると思える自己評価のこと)
思えればできて、思えなければできない。
シンプルなのだがコーチングの根幹をなす重要な要素だ。
可能性の限界は自分が作り出している。可能性の限界を広げるとはコンフォートゾーンを広げることであり、できないと思っていることを心からこできると思えるようになることである。
ここでその方法に入っていく。
可能性の限界を広げる方法とはゴール設定である。
できると思えることができることといったが、ではあなたは一体何ができるようになりたいのか、何になりたいのか、何が欲しいのか
このことがわからなければできるという言葉が意味をなさない。それがゴールということなのだ。
ゴールとは可能性の限界の外側に設定するものだ。できることをゴールにしたって意味がない。そんな不毛なことをするぐらいならさっさと叶えてしまえばいい。できるのだから。
可能性の限界の外にある欲しいものであったり、叶えたいもののことをゴールということを知っておいてほしい。
それはイコールできないと思うところから始まる。できないをできると思えるようにしていくことが可能性の限界を広げるということになるのだ。
さあここまでわかると方法論もコーチングにあることがわかってくると思う。
コーチをつけてスコトーマを見つけてもらい、エフィカシーを上げてもらう方法論がパーソナルコーチングだ。
自分でコーチング理論、アファメーションやセルフトークのコントロールなどを学び、実践していくことがセルフコーチングだ。
どちらも可能性の限界を広げていくのに絶大な効果がある。イメージの力で遠くにあるゴールを自分の近くまで持ってきて、できると思えるようになる。
私が知る限り、可能性の限界を広げる方法とは唯一コーチングだけだと思う。
それはコーチングを受けたり、実践したりしない人は可能性の限界の中でしか生きることができないということだ。
可能性の限界を広げるためにはコーチングなしでは考えれないのだ
海外ドラマ「ウォーキング・デッド」を見ている。
ゾンビが出てくるドラマなのだが、人間性の描写が秀逸な作品だと思って見ている。おすすめなので是非見てほしい。
このドラマを見ていて、学びになったことがあるのでそれを今回はテーマにしてみたい。
世界でゾンビウイルスが蔓延し、ほとんどの人間がゾンビになってしまい、ごく少数な人間が生き残り、そして生き残り続けていくための物語だ。
生き残り続けていくのはこの世界ではすごく大変である。そうした場合、一瞬一瞬の判断が命取りになる。しかも世界がゾンビに支配されるなんて初めての体験なので過去の経験などは役に立たない。その場、その時の判断が自分、家族、仲間の命に関わる。
このドラマを見ていて思ったのは我々の判断はブリーフシステムにより、知覚、照合、評価、判断されている。しかしそのブリーフシステムが過去のものであり、今必要な情報を出すことができないと理解したとき、すなわち何の役にもたたないと理解したとき、人はどうなるのだろう。
パニックになったり、それでも過去のブリーフシステムにしがみついたりするのだろうか。
我々は安定した社会の中で生きている。だから親や教師や社会から教えられた価値観にしたがって、ブリーフシステムに従って決断を下して生きていても何の問題もないと思っている。(そう思っている人が多いとしておこう)
しかし、コーチングではそのブリーフシステムをぶち壊せなんて教える。それはちょうどこのドラマでいうところの生きるためにブリーフシステムを変えることを余儀なくされた人たちがやったことと同じだと思う。
そんなことをこの平和な社会の中でやるのだから、そりゃ変えなくてもいいんじゃないというホメオスタシスが働いても不思議じゃない。
しかしだ、もう少し突っ込んで考えてみると我々の心の中は本当に平和なのだろうか。この社会は本当に安心した社会なのだろうか。
もしそうなら、過労死、病死、青少年の自殺、殺人事件や家庭内での問題、社内での問題、教育現場での問題などないはずである。世界的にみると戦争をして殺し合いをいまだに続けている。
そんなことを考えいるとふと思った。
もしかして我々がゾンビなのではないかと。
我々が構成している社会はゾンビの集まりなのではないかと。
自らの自由意志で生きることができる人間が人間
自分以外の誰かの価値観で生き続ける人間がゾンビ
このように定義したらこの世界もゾンビで支配された世界なのかもしれない。そしてゾンビは噛むことにより感染させるのだが、まさしく、自分以外の価値観で生きている人が夢を持った若者に「そんなのどうせ出来っこないから、現実をみなさい」といって夢をあきらめさせ、自分と同じように社会の価値観、誰かの価値観を受け入れさせようとする行為は噛んで感染させているのと同じであるように見えてくる。
ゾンビなのか、洗脳された人なのか、表現方法は色々だが、
ウイルスに感染したのがゾンビだとすれば
コーチングはそのウイルスに勝つワクチンと言えるようにも思う。
骨の髄までゾンビ化する前にコーチングを受けよう!
おっといつのまにか宣伝になってしまった。
いやしかし、本当にコーチングワクチンで人にWANT TOで生きること、自由意志で生きることを逆に蔓延させていくことによって、人々を覚醒させることが必要であると感じた。
まずは自分が覚醒する。そして他の人も覚醒させていく。そんな人が増えればきっと本当に素晴らしい世界が到来するはずだ。
きっと!
我々コーチングに携わる者はエフィカシーという言葉を日常茶飯事的に使う。だけどその言葉の定義が本当にわかっているのか。
本当の意味でエフィカシーを理解するために解説してみよう。
エフィカシーとはゴール達成する能力の自己評価のことと言われる。
またはコンフォートゾーンのレベルとも言われる。
一体どういうことか?
コンフォートゾーンとは自分がリラックスして能力を発揮することができるところ。例えば地区ではナンバーワンの評価を得ている野球チームがあったとしよう。そして下馬評どおり地区大会で優勝した。そして県の大会に出場することになった。緊張したがなんとかそこでも優勝することができた。そして全国大会に行くことになった。すると場違い感や緊張感、アウェイ感などにより力を発揮できなかった。こんな場合を考えてみたときに地区大会で優勝した時にはリラックスして能力を発揮できる場であったということだ。これをコンフォートゾーンという。
そして全国大会で力を発揮できなかったのはコンフォートゾーンの外にでてしまったからであり、リラックスして力を発揮していたら全国大会でも優勝していたかもしれない。
我々の持っている能力を最大限に発揮できる場がコンフォートゾーンである。
そしてコンフォートゾーンのレベル=エフィカシーとは
この場では私はこれぐらいの能力を発揮してこれぐらいの成果を収めることが当たり前であると思っていること。確信していることをエフィカシーという。
できて当たり前と思えていることがエフィカシーなのだ。
それは逆にいうとコンフォートゾーンでなければ思えるはずがない。だから、コンフォートゾーンのレベルとエフィカシーが同じだということなのだ。
エフィカシーは自信のことだと思われたりするのだが、当たり前にできることは自信とは言わない。当たり前にできることをすごいとか思わない。普通なのだから。エフィカシーとはそういうものである。
はたから見ると自信があるように見えるかもしれないが、当の本人は自信でも自慢でも何でもない。当たり前に思っているということ。
だから、エフィカシーを高めるとはなりたい自分のイメージが当たり前になるまでコンフォートゾーンになるまでそのイメージに慣れ親しむということになってくる。
なりたい自分のイメージは最初はコンフォートゾーンではない。それをコンフォートゾーンにイメージの力で持ってくる。そしてエフィカシーとは未来のコンフォートゾーンに対して今、当たり前と思うように持ってくるということなのだ。だからできていないことでもできて当たり前と思う勘違いもエフィカシーといえる。それを大いなる勘違いと言ったりもする。
そしてそのための具体的方法論がアファメーションということなのだ。
今日からあなたも大いなる勘違い=エフィカシーを持って、歩んでいってはどうだろう?