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内部表現の書き換えと抽象度についてのお話をしようと思う。
抽象度は情報空間から物理空間まで連続的に広がっている。内部表現の書き換えはどの抽象度においてもできる。
しかし抽象度の高いところから低いところへの影響は容易だが、逆の低いところから高いところへの影響はあまり期待できない。
これは内部表現書き換えのプリンシプルだ。
プリンシプルだけだとわかりにくいので、例で説明してみよう。
例えば、いじめられていて学校に行きたくないと思っている、子供がいるとしよう。時に親は強引に引っ張って学校へ連れて行く場合がある。
いじめられていて学校に行きたくないと思っているのは心であり、それは抽象度でいえば物理より上位に位置する情報空間にあるこころが影響をうけてしまっているのは明らかだ。それは誰でも理解できるだろう。
しかし、この親がした行動、引っ張って連れて行くという行為は抽象度でいえば情報空間より下位に位置する物理空間の体を引っ張ったわけだ。もちろん、親は子供の内部表現を変えたくてやったのだろう。強引に連れて行けば内部表現がかわると思ったというか、そのやり方しか知らなかったのか。
とにかく、物理的な影響でもって問題を解決しようとした。
誰でもわかると思うがこれで、子供が立ち直り、学校に行き始めるはずはない。
それは物理的に学校に行かないという行動は、抽象度でいえばその上位にある情報空間に存在するこころに問題があったからだ。
内部表現の書き換えはこの情報空間に働きかけることが必要になってくる。
情報空間に働きかけるためには抽象度の高い思考ができなければならない。この場合であれば、なぜ子供が学校に行きたくないのか、学校でどんなことがあったのか、誰にいじめられているのか、その子にとってどんな解決をすればまた楽しく学校に行けるのか、そもそもその学校に行く必要があるのか、などなどとその子のこころに影響を及ぼしている関係性を見抜き、そしてその子の内部表現つまり、心がマイナスからプラスになるように働きかける。
この例のように内部表現の書き換えとは、簡単にいうと心を変えるということである。
そして心を変えるとはより高い抽象度から働きかけると大きな成果が得られるということだ。
だから内部表現の書き換えと抽象度とはセットだと思えばよいだろう。
そして抽象度を上げることは容易ではないが、抽象度を上げていくことが生きるということそのものだと思う。言い換えれば人として成長、進化していくということだ。
私もその過程であるし、同じく皆さんもその過程であるのだろう。
共に成長、進化し抽象度を上げていきましょう。
可能性の限界を広げる方法を考えてみよう。
その前にコーチングにおいて可能性の限界を言い換えるとどうなるかを知っておいてほしい。
それはコンフォートゾーンであり、エフィカシーのことである。
コンフォートゾーンやエフィカシーについては何度もブログで書いてあるので見直してほしい。
自分のコンフォートゾーンは自分で決めている。だから可能性の限界も自分で決めているといえる。本来、人には無限の可能性があるのだが、コンフォートゾーンを定めてその中で安定的に生きようとする人の習性が可能性の限界をつくりだす。コーチングはそのコンフォートゾーンを自らでコントロールしていくことのお手伝いといえるのだが、とにかくコンフォートゾーンの外に出ていくことが可能なのだと徹底的に分かってもらおうとする。
そしてエフィカシーはそれができると思うちからのことだ。
可能性の限界は自分が作っている。だから自分の意識ひとつで限界を破ることはできる。
人はできると思うことができることで
できると思えないものはできない。
どんなに困難だと思えることでも自分ならできると思えればできる。そう考えると可能性の限界とは思える力のことといえることが分かってもらえると思う。
そしてその力のことをエフィカシーと呼ぶのだ。(厳密にはできると思える自己評価のこと)
思えればできて、思えなければできない。
シンプルなのだがコーチングの根幹をなす重要な要素だ。
可能性の限界は自分が作り出している。可能性の限界を広げるとはコンフォートゾーンを広げることであり、できないと思っていることを心からこできると思えるようになることである。
ここでその方法に入っていく。
可能性の限界を広げる方法とはゴール設定である。
できると思えることができることといったが、ではあなたは一体何ができるようになりたいのか、何になりたいのか、何が欲しいのか
このことがわからなければできるという言葉が意味をなさない。それがゴールということなのだ。
ゴールとは可能性の限界の外側に設定するものだ。できることをゴールにしたって意味がない。そんな不毛なことをするぐらいならさっさと叶えてしまえばいい。できるのだから。
可能性の限界の外にある欲しいものであったり、叶えたいもののことをゴールということを知っておいてほしい。
それはイコールできないと思うところから始まる。できないをできると思えるようにしていくことが可能性の限界を広げるということになるのだ。
さあここまでわかると方法論もコーチングにあることがわかってくると思う。
コーチをつけてスコトーマを見つけてもらい、エフィカシーを上げてもらう方法論がパーソナルコーチングだ。
自分でコーチング理論、アファメーションやセルフトークのコントロールなどを学び、実践していくことがセルフコーチングだ。
どちらも可能性の限界を広げていくのに絶大な効果がある。イメージの力で遠くにあるゴールを自分の近くまで持ってきて、できると思えるようになる。
私が知る限り、可能性の限界を広げる方法とは唯一コーチングだけだと思う。
それはコーチングを受けたり、実践したりしない人は可能性の限界の中でしか生きることができないということだ。
可能性の限界を広げるためにはコーチングなしでは考えれないのだ
海外ドラマ「ウォーキング・デッド」を見ている。
ゾンビが出てくるドラマなのだが、人間性の描写が秀逸な作品だと思って見ている。おすすめなので是非見てほしい。
このドラマを見ていて、学びになったことがあるのでそれを今回はテーマにしてみたい。
世界でゾンビウイルスが蔓延し、ほとんどの人間がゾンビになってしまい、ごく少数な人間が生き残り、そして生き残り続けていくための物語だ。
生き残り続けていくのはこの世界ではすごく大変である。そうした場合、一瞬一瞬の判断が命取りになる。しかも世界がゾンビに支配されるなんて初めての体験なので過去の経験などは役に立たない。その場、その時の判断が自分、家族、仲間の命に関わる。
このドラマを見ていて思ったのは我々の判断はブリーフシステムにより、知覚、照合、評価、判断されている。しかしそのブリーフシステムが過去のものであり、今必要な情報を出すことができないと理解したとき、すなわち何の役にもたたないと理解したとき、人はどうなるのだろう。
パニックになったり、それでも過去のブリーフシステムにしがみついたりするのだろうか。
我々は安定した社会の中で生きている。だから親や教師や社会から教えられた価値観にしたがって、ブリーフシステムに従って決断を下して生きていても何の問題もないと思っている。(そう思っている人が多いとしておこう)
しかし、コーチングではそのブリーフシステムをぶち壊せなんて教える。それはちょうどこのドラマでいうところの生きるためにブリーフシステムを変えることを余儀なくされた人たちがやったことと同じだと思う。
そんなことをこの平和な社会の中でやるのだから、そりゃ変えなくてもいいんじゃないというホメオスタシスが働いても不思議じゃない。
しかしだ、もう少し突っ込んで考えてみると我々の心の中は本当に平和なのだろうか。この社会は本当に安心した社会なのだろうか。
もしそうなら、過労死、病死、青少年の自殺、殺人事件や家庭内での問題、社内での問題、教育現場での問題などないはずである。世界的にみると戦争をして殺し合いをいまだに続けている。
そんなことを考えいるとふと思った。
もしかして我々がゾンビなのではないかと。
我々が構成している社会はゾンビの集まりなのではないかと。
自らの自由意志で生きることができる人間が人間
自分以外の誰かの価値観で生き続ける人間がゾンビ
このように定義したらこの世界もゾンビで支配された世界なのかもしれない。そしてゾンビは噛むことにより感染させるのだが、まさしく、自分以外の価値観で生きている人が夢を持った若者に「そんなのどうせ出来っこないから、現実をみなさい」といって夢をあきらめさせ、自分と同じように社会の価値観、誰かの価値観を受け入れさせようとする行為は噛んで感染させているのと同じであるように見えてくる。
ゾンビなのか、洗脳された人なのか、表現方法は色々だが、
ウイルスに感染したのがゾンビだとすれば
コーチングはそのウイルスに勝つワクチンと言えるようにも思う。
骨の髄までゾンビ化する前にコーチングを受けよう!
おっといつのまにか宣伝になってしまった。
いやしかし、本当にコーチングワクチンで人にWANT TOで生きること、自由意志で生きることを逆に蔓延させていくことによって、人々を覚醒させることが必要であると感じた。
まずは自分が覚醒する。そして他の人も覚醒させていく。そんな人が増えればきっと本当に素晴らしい世界が到来するはずだ。
きっと!
我々コーチングに携わる者はエフィカシーという言葉を日常茶飯事的に使う。だけどその言葉の定義が本当にわかっているのか。
本当の意味でエフィカシーを理解するために解説してみよう。
エフィカシーとはゴール達成する能力の自己評価のことと言われる。
またはコンフォートゾーンのレベルとも言われる。
一体どういうことか?
コンフォートゾーンとは自分がリラックスして能力を発揮することができるところ。例えば地区ではナンバーワンの評価を得ている野球チームがあったとしよう。そして下馬評どおり地区大会で優勝した。そして県の大会に出場することになった。緊張したがなんとかそこでも優勝することができた。そして全国大会に行くことになった。すると場違い感や緊張感、アウェイ感などにより力を発揮できなかった。こんな場合を考えてみたときに地区大会で優勝した時にはリラックスして能力を発揮できる場であったということだ。これをコンフォートゾーンという。
そして全国大会で力を発揮できなかったのはコンフォートゾーンの外にでてしまったからであり、リラックスして力を発揮していたら全国大会でも優勝していたかもしれない。
我々の持っている能力を最大限に発揮できる場がコンフォートゾーンである。
そしてコンフォートゾーンのレベル=エフィカシーとは
この場では私はこれぐらいの能力を発揮してこれぐらいの成果を収めることが当たり前であると思っていること。確信していることをエフィカシーという。
できて当たり前と思えていることがエフィカシーなのだ。
それは逆にいうとコンフォートゾーンでなければ思えるはずがない。だから、コンフォートゾーンのレベルとエフィカシーが同じだということなのだ。
エフィカシーは自信のことだと思われたりするのだが、当たり前にできることは自信とは言わない。当たり前にできることをすごいとか思わない。普通なのだから。エフィカシーとはそういうものである。
はたから見ると自信があるように見えるかもしれないが、当の本人は自信でも自慢でも何でもない。当たり前に思っているということ。
だから、エフィカシーを高めるとはなりたい自分のイメージが当たり前になるまでコンフォートゾーンになるまでそのイメージに慣れ親しむということになってくる。
なりたい自分のイメージは最初はコンフォートゾーンではない。それをコンフォートゾーンにイメージの力で持ってくる。そしてエフィカシーとは未来のコンフォートゾーンに対して今、当たり前と思うように持ってくるということなのだ。だからできていないことでもできて当たり前と思う勘違いもエフィカシーといえる。それを大いなる勘違いと言ったりもする。
そしてそのための具体的方法論がアファメーションということなのだ。
今日からあなたも大いなる勘違い=エフィカシーを持って、歩んでいってはどうだろう?
私の机の上には地球儀がある。
これはなるべく抽象度を高く維持するために置いている。世界の色々な地域に思いを馳せて思考の訓練をしている。
ところでこんなことを考えたことはないだろうか?
抽象度を上げて何の得があるの。今私の欲しいものはブランドのバッグよ。俺の目標は出世することだし、世界のことなんてそれには関係ないぜ!
今の自分の目標や悩みと抽象度の関係性をなかなか感じられないかもしれない。しかし抽象度を上げるとその悩みが消えるのだとすると、すこし抽象度ってどうやってあげるの?なんていう興味がわいてくると思うのだがどうだろう?
厳密にいうと抽象度が上がると悩みが消えるというより悩みが変わるといった方がより正確かと思うが、その今の悩み自体は消えるのだから消えるでもよしとしよう。
例えばだ
夫婦喧嘩が絶えない。夫婦がうまくいってない悩みがあるとしよう。もちろん嫁姑でも、子供との関係でも同じだ。
ここでは夫婦を例に挙げて説明する。
夫は夫のブリーフシステムを持ち、妻は妻のブリーフシステムを持っている。そんな二人がある一つの問題に対して意見をいいあう。子供の育て方であったり、住む場所への望みであったり、お金の使い方であったり、などなど。
大抵、そんな二人の喧嘩になる理由はひとつだ。
なぜあいつは俺の、私の考えがわからないのだ?
自分の意見を押し通したくて喧嘩になる。というか違う意見を持った二人が折れない状況を喧嘩というのかもしれない。
とにかく、相手のことが理解できなくて喧嘩になるのだ。
そしたら、ここで抽象度だ。抽象度を上げるとはどういうことなのか?
この問題を一段高い抽象度で俯瞰してみる。すると夫と妻のブリーフシステムがあるのだと理解する。
簡単に書いたが、これはすごい重要なことです。
私のブリーフシステムがある。それと同じように他者にもブリーフシステムがあり、価値観があり、思想があり、独自の経験があるのだ。
そしてそれは当たり前だが、同じものもあれば、違うときもある。
高い抽象度からみるということは私のブリーフシステムと他者のブリーフシステムがふたつ同じ価値で見えるということだ。
わかりやすい言い方をすると
私はこう思う。だけど彼、彼女はこう思うんだ。とすれば二人でこうすれば一番いいよな。という答えを導き出すことができる。
喧嘩とは自分の考えを相手に受け入れさせたいという欲求により起こる。だけど自分の欲求と相手の欲求が同じ価値であれば受け入れさせたいとはおもわない。解決策は違う者同士がどうやればうまくいくかを発見することにあるという結論になる。
抽象度をあげるとはこういうことなんだ。
自分のことだけという抽象度もあれば、家族の抽象度もある。そして抽象度はいくらでも高く昇っていくことができる。地域の抽象度、国の抽象度、世界の抽象度、宇宙の抽象度・・・
抽象度を上げるとは我々にとってすごく身近な問題を解決することに繋がるということを理解してほしかったがどうだろうか?
まずは自分が上がって相手の価値観を理解してみる。そんなことにチャレンジしてみてほしい。
2016年の最初のブログだ。
新年のコーチングブログにもっともふさわしいのは、やはりゴール設定だろう。
あなたは新年のゴール設定はされただろうか?
ゴールは更新していくのがよい。昨日の自分と今日の自分は違っている。一秒前の自分と今の自分も違っている。それと同時にゴールも変わっているかもしれないのだ。それを見直していく作業はとても大事だ。日々、一分一秒新しい自分に生まれ変わる。そのたびごとにゴールも更新される。それでよいのだ。
新年と昨年の違いなんてない、ただいつもと同じように時間が過ぎていっただけだ。しかし、普段ゴール設定と更新をしていない人にとってみればそれをおこなう格好の瞬間だと思う。是非ともこの機会にゴール設定、更新をしてみよう。
ところでゴールがある人生と、ない人生との違いはとはどんなものだろうか。
私はコーチングに携わるようになって、この違いを恐ろしいぐらい痛感するようになった。
ゴールはスコトーマを外し、新しい自分に生まれ変わるための唯一のツールだ。ゴールは自分で自由に決めることができるわけだから、ゴールを考えていること自体が自由意志の行動である。
ゴールがある人は自由意志を持った人だといえる。
逆にゴールがなければどうなるか?
これが私は恐ろしいと思うようになったところだ。
ゴールがなければ、変わらない。変わらないとはどういうことか?
ゴールがない人とは物事の考え方や、選択、決断、これが毎回同じような答えをだす。コーチング用語でブリーフシステムというのだが、このブリーフシステムはあなたに毎回同じ答えを出させようとする。
コーヒーにしますか?
紅茶にしますか?
と聞かれたときに毎回同じ答えをだすのと同じように。
しかもその選択は大抵、親や教師などの子供の頃に植え付けられたブリーフシステムから生まれているのだ。
怖くないですか?
ゴールのない人は自由意志で生きていないのだ。誰かの価値観を植え付けられ、それを受け入れ、信じた瞬間からその誰かの価値観で世界を見続けている。
そしてそれが世界のあり方、自分の価値だと思い込んだままで抜け出すことができないのだ。
私はそれをとても怖いことだと思うようになった。
自分の自由意志で生きること以上に価値のあることがこの世にあるだろうか?
本来の自由意志での選択、決断こそ何よりも価値があるものだと思う。
そしてその自由意志を手に入れるためのツールがゴール設定なのですよ。
誰かがあなたに書き込んだブリーフシステムでもって生きていくのか。
あなたの自由意志での選択での人生を選ぶのか。
そのすべてがゴール設定からはじまる。
新年この機会にとんでもない大きなゴールを掲げてみてはどうだろうか。
今回はコーチングとはどういったものなのかを説明しようと思います。
コーチングとは何かを一言でいうと、「ゴールを達成するお手伝い」ということになるかと思います。
では、なぜコーチングを受けるとゴールが達成されるのか?
まずはなぜゴールが達成されないのかを考えてみましょう。それは「私はゴールを達成することができない」というブリーフシステムを持っているからです。
コーチは「ゴールを達成することができる」というブリーフシステムに書き換えます。このことをコーチングというのです。どうですかシンプルでしょう。
しかし、この説明だけでは「どうして初めて会った人にそのゴールが達成されるなんてことがわかるんだ!」「その人のことを知らないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
では、逆に質問です。
あなたはどうしてゴールが達成されないと思っているのですか。できないという根拠を示すことができますか?
もちろんできない理由はどんどん浮かんでくるかもしれません。しかしそれは絶対ですか、それが正しい、絶対だと証明できますか。その境遇を乗り越えて成功している人と自分の違いを、自分が心から納得できる説明をすることができますか?
コーチングを支えているのは巨大な理論体系です。私の理論体系はルータイス、苫米地博士の理論に依るものです。
そのコーチングの結論として、「できると思ったことができること」というプリンシプルがあります。
このプリンシプルだけです。
できると思えばゴールは達成されるのです。できるというブリーフシステムになってしまえばなんてことなく、ゴールは達成されるのです。
あなたが今までどんな過去を持っていようが、どんな境遇だろうが、そんなことはゴールを達成されるか否かとは関係がないことを我々コーチは知っているのです。
だからそんなに深くあなたの過去を知らなくても、自信を持って「できると思うよ」ということができます。
そして、不思議と人は心からできると思う人が隣にいるとゴールが達成されてしまうのです。
これがコーチングというものです。
諦めるということは「私にはできない」ということを受け入れるということです。諦めずに達成したいゴールは持つほうがいいと思います。その方が人生は楽しくないですか。だってできると思えばできるのですから。
これが人の可能性は無限であるということです。
コーチングは無限の可能性に気づいてもらうことであり、無限の可能性を求めて新しい自分への冒険をしていく人のために応援をすることだと思っています。そしてそのコーチングの効果というものも計り知れないものだと思います。
人は普通に生きていると情報空間の存在を感じることはあまりないのかなと思います。
しかし、実はそんなことはなく我々人間は当たり前のように情報空間の中で存在しているのです。
昨日、お風呂に入っていました。追い炊きのスイッチがオンになっていたのでどんどんとお風呂が熱くなってきました。まだ大丈夫かな、まだ大丈夫かなと様子をうかがっていたのですが、だめだ、これ以上熱くなりすぎると気持ち良さが半減してしまうとのことで、追い炊きスイッチを切りました。
ちなみに文字にするとまるで気持ち良さが半減してしまうと意識的に考えていたように思えるかもしれませんが、今回はそんなことはなくほとんど無意識的になんか熱いな~ぐらいでした。
このことを冒頭の話に置き換えてみると
スイッチをオフにしたことが物理的な世界での作業です。
人はこれらのことにしかあまり気を払っていないのではないかということです。
しかし、その前に熱いから気持ちいい温度にしようというイメージがあったわけです。
その結果、スイッチをオフにしたのです。
当たり前の話ですが、でもきちんと情報が先で物理はその結果だと認識することはとても重要です。
でなければ我々は情報の操作で夢を叶えることができる、自分を変えることができるといったこともつい忘れてしまうものです。
脳は先にイメージをします。そしてその結果、選択したことを行動に移すのです。そしてその行動の結果が今、あなたの置かれている現状ということです。
ですから、行動を変えるのではなく最初のイメージを変えることが夢を叶えたり、自己実現を叶えたりするのです。
お風呂のお湯の気持ちいいイメージが先にあったから、スイッチのボタンを押したのです。
イメージを変えてみましょう。
そしてその後の行動はそのイメージ通りに無意識が勝手に行動することになり、そのための努力などは一切必要ないのです。
年末になり、慌ただしい毎日を過ごしている方も多いのではないでしょうか。
私も年末ということで、大量の本を整理してみました。
本は趣味でもあるので、いつのまにか量が増えてしまいます。量が増えると、本棚の奥と手前の両方におくようになって片づけでもしない限り、奥の本を読み返すことは絶対になくなります。
ですから、本棚を増やすか本を処分するかの選択になるのですが、家の都合上無限に増え続けそうな本をストックできるようなスペースの確保はやはり難しいです。
ということで処分を選択しました。
残す本と処分する本、これらをどう分けるか。
皆さんも同じようにされていると思いますが、自分にとって重要な本と重要でない本の選別をします。
我々の自我も同じで私が私だと思っている私とは本来、空なのでこれ!と取り出すことのできないものです。すると私とは何々だという情報で私を定義しています。
その情報は本の選別と同じように重要であるかどうかが振り分けの基準となっているのです。
自分にとって重要であると思っている事柄の集合が自我だということです。
そんな視点から、本棚を見てみると本棚は考え方を形成しているものでもあり、自我を形成しているものであるといってもいいと思います。だから誰かに本棚を見られるとちょっと恥ずかしかったりするときもあるのです。
その本棚を整理すると、自我を整理しているような気分になりとても気持ちがいい。
本棚だけではなく、家の整理や整頓をすると自分の頭の中が整理されることなので、定期的な整理は欠かせないことですね。
皆さんも年末に向けて物理場と情報場の整理をして、新しい年と共に新しい自我を手に入れて欲しいと思います。